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盛岡地方裁判所 昭和23年(ワ)24号 判決 1948年11月08日

原告

河内判之助

外四十名

被告

岩手縣知事

主文

原告等の請求は夫々之を棄却する。

訴訟費用は夫々原告の負擔とする。

請求の趣旨

被告岩手縣知事が原告等所有に係る別紙目録記載の土地に付買收令書によつて爲した對價の決定は之を取消す。訴訟費用は被告等の負擔とする。

事実

原告訴訟代理人は、請求原因として、原告等は夫々別紙目録記載の通り當該土地を所有せるところ、右土地所在町村の農地委員會は右土地を自作農創設特別措置法第三條第一項に該當するものとして國に於て買收する計畫を樹て、被告岩手縣知事はその買收令書を以て夫々別紙目録記載の對價により右土地を買收する旨通告をした。

被告は本件訴は不適法であると主張するか、被告主張の當該原告等が本件買收令書の交付を受けたのは何れも各本件訴提起前一ケ月以内である。尚自作農創設特別措置法(昭和二十一年十月二十一日法律第四十三號)第十四條によれば農地買收價格に對する不服の訴提起期間は買收令書の交付又は同法第九條第一項但書の公告の日から一ケ月以内と定められて居るか其の後に制定された日本國憲法の施行に伴う民事訴訟法の應急的措置に關する法律(昭和二十二年法律第七十五號)第八條によれば行政廳の違法な處分の取消又は變更を求める訴は當事者が其の處分があつたことを知つた日から六ケ月以内にこれを提起しなければならないと規定されてあり、從つて右訴提起期間については右後に制定された法律が効力あるものであると陳述した。

本案に付、右對價で本件土地を強制買收されることは不服である、かゝる不當な價格で賣渡すことは出來ない、その理由は、

第一、日本國憲法第二十九條によれば「財産權は之を侵してはならない」「私有財産は正當な補償の下にこれを公共のために用ひることが出來る」と規定されて居る。農地は財産權であり則ち私有財産であるから自作農創設特別措置法により國がこれを買收することは前述「公共のために用ひる場合」と解しても其買收は正當な補償の下に行はれなければならないと信ずる。原告は則ち正當な補償を要求するものである。

第二、日本はボツダム宣言を受諾し聯合軍の占領下にあるが聯合軍總司令部一九四五年十二月九日附農地改革指令によるも同指令第三項(B)に於て「公正な價格で農地を非耕作者から購入する規定」を含む農改地革計畫を樹立すべきことを日本政府に命じて居るのであつて斷じて不公正な價格であつてはならない。

第三、被告は或は自作農創設特別措置法第六條によつて買收土地の對價は田に於ては地租法による土地の賃貸價格の四十倍畑に於ては四十八倍の範圍内で定めた對價は正當であると主張するかも知れぬ。併し乍ら法令が規定した價格だから憲法に所謂正當な價格だとの理論は成り立たない、物價は法令が定めて正當化するものでなく其の時代に於ける經濟事情に應じて一般物價の流通過程に於ける諸要求によつて決定せらるゝものであつて正當なる價格とは即斯かる物本來の經濟價格を云うのである。若しそれ法令で定めた價格は正當だと云うならば法令が例ば土地一町歩の買收價格が僅か三厘だと決定してもそれは正當だという誤論に陷る。かゝる理論によるときは憲法に規定した正當なる補償の規定は全く死文化し私有財産は共産主義政治の下に於ける沒收と同樣な侵害を受け法令で憲法を改正し若しくは其の効力を停止したと同樣の結果とならざるを得ない、之れ明に憲法に違反する私有財産の侵害である。從て茲に價格が正當だというには法令に定めたというに止まらず進んで他に正當なりとする證據を示さねばならない。

第四、被告が土地買收價格の基準とする土地の賃貸價格とは昭和六年地租法の施行に際し地租の課税標準と爲す爲に定められたものであつて、同法第八條により土地の貸主が公課修繕費其の他土地の維持に必要な經費を負擔する條件で之を賃貸する場合に收得すべき一年分の金額によつて定めたものであるから、土地資本に對する利息又は實質小作料若くは賃貸料と同一義に解して大した誤りはない。而して賃貸價格の幾倍の額が土地の價格に相當するかに付ては論議はあろうけれ共假りに賃貸料の利廻りを年五分と見れば逆算して土地の價格は賃貸料の二十倍となり年二分五厘と見れば同じく四十倍の額と推算し得るのであり、大體此の邊の價格が相當かも知れぬ。だが地租法によれば土地の賃貸價格は十年毎に改訂せられることに規定されて居り第一回改訂が昭和十三年に行はれて以來第二回は昭和二十二年度に改訂せられなければならぬ筈なのに拘らず國の直面する諸事情の爲に遂に改訂されなかつたのであるか假りに他の障害なしに改訂が行はれたとすれば政府の物價體系に準據しても昭和十三年決定賃貸價格の約六十五倍(半分としても三十倍)の線に引上げらるべきを一應相當とし更らに土地原本の價格はこの賃貸價格の二十倍乃至四十倍(即現賃貸價格の六百倍乃至二千六百倍)程度に評價せられたとしても經濟論的に敢て不當だとは云ひ得ないのであり、反つて當然だとさい言ふべきである。然るに田に於て賃貸價格の四十倍畑に於て四十八倍の額を以て農地を買收せんとするが如きは甚しく不當價格であるとの批難を免れ得ないものである。

第五、農業生産上土地は絶對である土地を離れては他の一切の諸條件(機械、器具、種子、肥料、勞力等)が完備されても農業生産は成り立たない。土地は元來植物を培養し得べき自然力を有するものではあるが、だからといつて自然其儘の状態に於て農作物が生育するものではない。之を耕作農業に適する土地即農地たらしめるには鬱蒼たる原始林、荊棘雜草繁茂せる原野、岩石、砂礫重疊せる荒無地、泥水充滿せる谷地沼澤等に對して莫大なる資本の投下と撓まざる勞力の傾倒によつて開墾耕起して之を農業に適する田畑とするばかりでなく、更に進んで灌漑用水を引き農道を作り明暗渠排水を行い客土を混じ底締めを爲し耕地を整理する等之に對する萬般の勞力と資本の投下により熟田熟畑となるものであつて、この集積の對價が則ち農地の絶對價格である。勿論農地の交換價格即賣價は必ずしも絶對價格と一致するものではなく、加うるに地味の肥痩による收穫の多寡、地形、位置、一定區劃の廣狹による耕作の利不利、經濟價値の大小、一般商品同樣需給の關係等相對價格との結合によつて最終決定がなさるべきものであつて公正なる農地の價格とは誠に斯の如きものである。併し乍ら土地所有者が農地を造成する爲に幾何の資本勞力を投じたりやは各農地毎に其の時代と歴史と條件を異にするから之を知るに容易でないし又知つたとしても現在の物價と對比して幾何に相當するやを算定することも至難でもあり繁鎖でもあるが今日新たに山野を開墾して農地とするには幾何の資本と勞力とを必要とするかを算定することによつて農地の絶對價格を算出推定することは至難の業ではなく又公正な農地の平均價格判定の方法として寧ろ正鵠を得たものであると信ずる。よつて自作農創設特別措置法施行の時期乃至本件土地買收の時期に於て未墾土地を熟成した農地とするには幾何の資本勞力を要するやを究明するを要するものと信ずる。

第六、勿論農業生産は土地の絶對價値(價格とは相違する)に對して耕作者が種子、肥料、勞力を投し器具、農藥等を使用して能率を上げるものではあるがそれが爲に土地の絶對價値(農地の自然力)を過少評價してはならない。農地調整法は小作料の金納化を規定し所定の小作料は一石七十五圓と定められたが全國平均生産高は一反歩玄米二石であるから反當小作料は百五十圓となる。假りに之を元本に對する五分の利廻りと見積つても田一反歩の價格は三千圓ということになる(これは餘りにも安い見方だが)二歩五厘の利廻りと見れば一反歩六千圓となる。然るに岩手縣下に於ける土地買收價格は概ね田一反歩三百圓乃至四百圓を通例とし最低に至つては百圓の上を幾何も出でず畑に至つては一反歩三十圓内外のもの少からずあつて林檎一箇の時價に相當し闇米一升を以て畑五反歩をさい買ひ得るといはれて居る實状は誠に奇怪至極というベきであつて如何なる點からも買收價格の不當に低廉なる證左でないものはない。

第七、農地の正當な價格を判定し樣とすれば尚左記諸事項を參酌すべきである。

(イ)事變發生前後日本銀行劵發行高二十億乃至二十五億圓程度の時代は日本の經濟界が比較的安定して居た時代であるが右日本銀行劵發行高と昭和二十二年一月遂に一千億圓を突破した現在の同劵發行高とを比較し之と物價との關聯の參酌。

(ロ)片山内閣の物價體系は事變前三ケ年平均の物價を基準として其六十五倍の線に安定せしめ樣としたが實際は郵便切手、鐡道運賃等も豫想外の高騰となり、酒、煙草に至つては五百倍から七百倍となつた事實と土地價格との對照研究。

(ハ)勤勞階級の賃銀や俸給の基準が所謂千八百圓ベースで戰前の二十七倍に相當する事實の參酌。

次に立證として鑑定を申出で、證人古谷寅雄、佐藤重次、大澤萬治、小野孝夫の訊問を求め、乙號證の成立を認めた。

被告訴訟代理人は原告等中別紙目録買收令書交付年月日及訴提起年月日欄に記入ある者の本件訴は不適法であると述べ、その理由として原告主張の樣に原告等が夫々別紙目録記載の通り當該土地を所有し、右土地所在町村の農地委員會が右土地を自作農創設特別措置法第三條第一項に該當するものとして國に於て買收する計畫を樹て、被告岩手縣知事がその買收令書を以て夫々別紙目録記載の對價(但原告河内判之助分の對價は金千六百十圓八十錢である)により右土地を買收する旨通告をしたことは之を認める。併し原告等中前示の者に右買收令書を交付したのは夫々別紙目録記載の買收令書交付年月日欄に記載の日であり、原告等中右の者が本件訴訟を提起したのは右目録記載の訴提起年月日欄に記載の日である、從つて原告等中右の者の本件訴は自作農創設特別措置法第十四條に定める出訴期間に違反してるから許すべからざるものであると主張した。

次に被告訴訟代理人は本案に付原告請求棄却の判決を求め、答辯として本件土地買收價格が廉價に過るとの原告主張は之を否認する。本件土地の買收價格は正當であり、憲法の正當な補償を支拂うべしとの規定に違反するものではない。その理由は、

一、原告の主張する經濟價格(正當價格)と云うのは要するに自由主義制度の理想型の場合を觀念上に想定し價格と價値とが一致した場合の商品價格を指すと思う。併し斯樣な状態に於ける物の價格は自由經濟制度の下に在つても實際的には存在するものではない。經濟學的にも大きな問題として取扱われ結論を得ておらぬ。いわんや戰後の我國に於ては原告の主張するが如き經濟價格なるものは存在しないのである、現實の耕地の賣買は公定價格によるか或は之に反する闇價格によるかの二途あるのみである。闇價格は當事者の一方が特別の必要に迫られて居る場合又は双方が利慾のために物の缺乏乃至流通の不圓滑の間隙を利用して爲された變態な状況から來る交換價格であつて所謂經濟的必然の價格ではない。原告も闇價格を以て正當な價格とは主張しておらぬようであるから結局原告の主張する經濟價格なるものは現存せずこの點から原告の請求は到底採用し得ないものと信ずる。

二、政府は買收價格を田にあつては反當りその賃貸價格の四十倍、畑にあつては四十八倍と定め更に三町歩以下の所有者に對しては報償金を附加支拂うことにしたのである。この算定の基礎は單に賃貸價格に無責任に或倍數を乘じて決定したものではなく自作收益價格を基礎としたのである。即耕地として耕作農民がその農業經營の維持出來得ること――働く農民が正當な成果を收むることが出來ること――を標準として決定せられたものである。この事は我國農村農民の民主化に絶對的必要なことであつて又ボツダム宣言受諾により當然爲さなければならぬ我國政府の任務である。農地對價の算定は

農業粗收入-(年産費+企業利潤)=自作農の土地所有より生する地代(A)

A÷0.0369(年利)=自作農所有農地價格(B)

B÷賃貸價格=賃貸價格の田40倍 畑48倍という倍率が出てくる

この倍率を採用して反當と賃貸價格の田は四十倍、畑は四十八倍と買收價格を決定したのであつて耕地の收益價格を基礎として合理的に算定せられたものであり耕作する者にとつて正當な價格と云うべきである。而も政府は地主所有耕地の場合その地主採算價格をも考量して反當り田二二〇圓、畑一三〇圓の標準として報償金を附加支拂うことにしたのであつてこれを全く地主の利益を考慮した結果政府の採つた方針である。

三、右買收價格は憲法第二十九條第三項の正當な補償の概念と一致するか否かを論究すると、正當な補償と云う意味は單に經濟學的にのみ決定すべきものでなく、こゝに法律適用としての問題となつているから憲法の目的、理想、原則を見定めてそれに照して決定しなければならぬ。新憲法の理想は民主々義の完全實現にありその逹成にある。そして又そのよつて立つ原理は民主々義原理である。この憲法の理想を實現せんために農村農業を久しきに亘つて支配した封建的諸制度の廢止を目的として農地改革が爲さるゝものであり又敗戰當然の我國の責務である。農地制度の改革、農村農業の民主化は農民が自己の耕地に於て農業經營しその勞働の成果を正當に享受し得ることによつて實現し得るものであつて耕地の價格も耕作者の農業經營の維持を主眼として決定せらるべきでありその爲にも收益價格を基礎として價格算定したことは農業民主化の爲に當然の事であり憲法の精神に遵い正當補償の概念に合致するものと云わなければならない。

四、耕地は之を譲渡すること、使用目的を變更することも所有者の自由に委せられていない。又小作料も物納主義は禁止せられ金納主義となつている。かくの如く法律は耕地の所有權の内容に制限を加えている。所有權の内容に制限を加えられた耕地は處分收益について自由を許された時代より商品としての價格が低下すべきこと當然である。原告は恰も何等法律上の制限をうけなかつた時代の立場からその價格が不當に低廉であると主張するようであるがそれは誤りである。

國家が國民の正しい發展と育成とその理想の實現のために必要品につき物價を公定することは公共の福祉のために當然である。わが憲法も亦これを認容するところである、我國の現状はボツダム宣言を受諾し農地制度の民主改革を爲さなければならぬ責任あるのみならず領土及海外權益の喪失、戰災並に賠償により極度の經濟的窮乏に陷つている。この状態にあつて國民の生活と國家の存立のための經濟再建、食糧增産には農地制度の改革は絶對に必要である。この爲法により物の價格を法定しその權利の内容に必要限度の制限を加えることは當然であり憲法及諸法の認容するところである。

原告は「農地の價格を法定することが不當であり憲法違反である」と主張し「一町歩の價格を三厘と決定してもよいと云う不合理を是認することゝなる」と極論しているが先に陳述したような基準から買收價格を決定したのであつて法定せられた價格こそ正當な價格である。

五、原告は「賃貸價格は改訂せらるべきでありその改訂は賃料の利廻を參照逆算して決定すべきであつてそれにより土地價格も決定すべきである、然らば一反歩數千圓となる」「從來の小作料の率から逆算して價格を決定すべきであり、然らば反當り數千圓となる」と主張しているが何れも地主の希望的價格と云うものであつて農地改革の精神に照し採用し能わぬ。從來の物納小作料は高率であつたが故にこそ農地改革の必要を生じたのである。小作料の金納を法定し且合理的賃料の確定方向にあるのであつてこの事は耕作者が農業經營の維持と再生産のために必要でありこの立場から自作收益價格が對價算定の基礎となつたのである。この外に正當な價格算定の基礎はないのである。原告はかつての小作料物納の利益に立脚し闇米價によつて地主一方の利益の點から價格は決定せらるべきであるかの如く主張するけれ共誤りである。原告は又「農地の價格は過去における當該土地に投下せられた資本、勞力及需給の關係によつて決定せらるべききでありこゝに正當な價格が生ずる」と云うが、從來耕地に資本及勞力を投下したのは耕作者自身であつたのである、本來土地なるものは自然の所與物であつて價格は存しないのであるが資本主義時代に入るや法律上の保護をうける事によつて一定の收入を生ずることゝなつてから有價證劵と同樣に土地か資本化し價格が確定したのである。この制度は公共福祉のために改革の必要が生じ法律が必要の限度に於て價格を公定したこと前述の通りである。特に不在不耕作地主の場合にあつては有價證劵と同樣利潤獲得の手段として所有權を取得するものであつてその耕地に生産のため資本勞力の投下して居らないのが現状である。假に幾らかの投資があつたとしても己に利潤によつて回收せられており――耕作者たる小作人は生産費までも小作料として支拂つて居た事は顯著なる事實である――又假に然らずとするも權利はその存在の理由からしても公共福祉のために制限をうけることは當然である。又原告は「需要供給の原則によつて價格は定まらねばならぬ」と云うのは「自由處分を許さなければならぬ、賣主買主の合意による價格によらなければならぬ」というのであろうが、これを許し得ざる内外の事情に在るが故に法は制限を加えていること既に明にしたところである。原告は更に「日本銀行劵の戰前戰後の發行高に對比して他物價が暴騰しているから耕地價格も亦これに準ずべきである。政府の新物價對策によると戰前の六十五倍となつたから戰前の土地價格の六十五倍にすべきである。勤勞階級の賃金は二十七倍になつたから土地價格も之に相應した價格で買收しなければならぬ」と論じているが、それは一片の感情論である。自作收益價格を基準とすることが耕地の最も正當なる價格の算定なのである。

と述べ、立證として證人岩本道夫、石川雅康の訊問を求め乙第一號證を提出した。

裁判所は職權を以て農地の價格に關する鑑定を命じた。

理由

原告等は夫々別紙目録記載の通り當該土地を所有したが、右土地所在町村の農地委員會は右土地を自作農創設特別措置法第三條第一項に該當するものとして國に於て買收する計畫を樹て、被告岩手縣知事はその買收令書を以て夫々別紙目録記載の對價(但原告河内判之助分の對價に付金十錢の相違あり)により當該土地所有者たる原告等に對し右土地を買收する旨通告をしたことは當事者間に爭ない。

依て先づ職權を以て原告訴訟代理人が本件訴を變更した點に付案するに、一般民事訴訟に於て訴訟物たる權利義務を變更することにより訴を變更する場合、その權利義務がその基礎を同うするや否やはその權利義務がその同一認識の標準の主要部分に於て互に索連するや否やにより定まる。而して訴訟物たる權利義務の主體(被告に就ては行政事件訴訟特例法は特別の理由に基き之が變更を許す)を變更するときは通例(權利義務の承繼が訴訟繋屬後に發生した場合等(民訴法七一條乃至七四條、二〇八條以下)主體の變動が訴訟物たる權利義務の同一性を失はしめない場合は異る)權利義務はその同一性を失い、その間索連關係を認むることが出來ないから互にその基礎を同うしない。この場合に於ては相手方の異議がない場合でなければ之が變更を許さぬ。農地買收對價不服の行政訴訟に於ては、買收土地所有權の主體を變更するときは違法を確認すべき行政處分を異にし、各裁判の對象間に索連關係を認めることが出來ないからその基礎を同うしない。此の場合被告の異議ない場合でなければ之が變更を許さないものと解する。從つて原告訴訟代理人が別紙目録記載買收土地所有者古舘福祇、古舘峻を各古舘德治と、同菅啓助を菅叟助と、同奧忠太郞を奧昌一郞と、同米澤忠一を米澤長五郞と、同小保内啓太郞を小保内岩吉と、同訴外黒澤治右工門を黒澤助右工門と各訂正したのは、夫々本件買收土地に付前者を所有者としたのを後者に變更するもので、右目録に新に二戸郡御返地村大字福岡字高淸水九番畑五畝十九歩對價三七圓九二錢所有者增田繁松を追加し同人に對する買收價格を不當とし之に對する買收處分取消を求めたのと共に、訴の基礎に變更あり、且之に對し被告の異議が存するから、之を許すことが出來ぬ。從て右訂正又は追加のない状態に於て裁判しなければならない。

次に被告の訴不適法の異議に付案するに、本件買收農地對價不服の訴は昭和二十一年十月二十一日法律第四十三號自作農創設特別措置法第十四條によるものであるが、同條は新法たる昭和二十二年十二月二十六日法律第二百四十一號の同法第十四條第一項の改正文言と異り「訴を以てれの增額を請求する」との文言なく、從てその訴は先の對價を增額しその部分の新な行政處分を求むるものでなく、先の行政處分により決定せる對價を變更することにより右處分の變更を求むる訴であると觀念すべきである。而して行政事件訴訟特例法第五條第五項、同法附則第二項本文、第三項、民事訴訟法の應急的措置に關する法律(昭和二十二年四月十九日法律第七十五號)第八條によると處分のあつたことを知つた日から六ケ月以内に右訴を提起せねばならぬ。尚右行政事件訴訟特例法及同附則の條項、昭和二十二年十二月二十六日法律第二百四十一號自作農創設特別措置法第四十七條の二第一項によれば右法律第七十五號第八條の規定に拘らず當事者が處分のあつたことを知つた日から一ケ月内に訴提起の要あり、又同法附則第七條第一項によると右法律施行(昭和二十二年十二月二十六日)前にその處分あつたことを知つた者は右四十七條の二の規定に拘らず右施行の日から一ケ月以内に訴を提起することを得る。而して本件に於て證人石川雅康の證言によれば別紙目録記載の買收令書交付年月日欄に記入の日に夫々當該土地所有者たる原告に當該土地買收令書の交付あつたことを認むることが出來るから反證ない限り當日當該原告はその處分のあつたことを知つたと認めねばならぬ。又右目録記載の訴提起年月日欄に記入の日に本件訴提起のあつたことは一件記録に徴し明であるから右各記入のあつた分に付ては右令書交付の日と訴提起の日との間に夫々一ケ月以上經過して居ること明であるけれ共右法律第二百四十一號により昭和二十二年十二月二十六日から一ケ月以内に提起した本件訴は何れも適法であると云はねばならぬ。

仍て次に本案に付案ずるに、成立に爭ない乙第一號證及證人岩本〓夫の證言を綜合すれば、本件自作農創設特別措置法による農地買收對價算出の方法は、昭和十五年から同十九年迄の平均水稻反當實收高を第一次農地改革當時の供出價格と保有價格とで金錢に換算し之に耕作者の副收入を加へ反當粗收入を算出し

田反當粗收入248圓75-〔生産費212圓37+利潤8圓50(生産費の四パーセント)〕=自作農の田地所有から生ずる地代27圓88

右地代÷0.0368(國債利廻り)=反當田自作收益價格(自作農所有農地價格)757圓60

右收益價格÷中庸田反當標準賃貸價格19圓O1=約40

畑については、田と畑との賣買價格の比率は田を一、〇〇とすると畑はその〇、五九倍となるので

田の收益價格×0.59=反當畑自作收益價格446圓98

右畑收益價格÷中庸畑反當標準賃貸價格9圓33=約48

以上各收益價格の賃貸價格に對する倍率を採用して反當り賃貸價格の田は四十倍、畑は四十八倍と買收價格を決定したもので、尚地主有耕地の場合反當り田二百二十圓、畑百三十圓を標準として報償金を附加支拂うことゝしたものであることを認めることが出來る。仍て右買收價格が正當なものであることに付左に(一)個人は國家の定むる所が或相當の理由により或一定の買收價格等を公定する場合、公平觀念、理論的觀念又は主觀的觀念に基く右買收等に基く總ての損害賠償を要求し得るとの觀念を制壓し、普遍的、全般的考慮により右公定に從うの思想が右買收價格等公定の基本たる法律觀念であるとの點(二)公法上の損害賠償の範圍は社會的に妥當な客觀的の物的基礎による計算によらねばならぬこと(三)經濟學的見地から本件農地買收價格としては自作農收益價格が所謂正常價格で社會的に妥當な客觀的物的價格であること(四)國家の個人に對する指導任務に基く農地政策の觀點からしても右價格による買收が正當であることに付説明する。(一)吾人の社會を構成する有機團體生活に於ては自己保全本能の表現形式である人間的利己主義を合理的に制壓し、組織體の範圍に於ける組織作用の原動力たらしめる、即右制壓は利己主義の凡てを破壊して之を消滅せしめるの謂ではなく他人を害することは結局自己を害するに歸着するとの理念に覺醒し、利己主義が一方に於て道德的責任の重必作用となり、他方に於て群團中に於ける他の分子との結合的引力作用となり、右兩方面の方向の間に力の合成方向を求め利己主義の道向を之に向けて、利己主義に最も中心的な眞正の方向を示し、利己主義を制肘するの謂で、斯くして各個人を眞の自由に導くのである。自由とは自己所屬と認められた環境との關係の平和に對する幸福感である。而して此の内部的自由は右所述の二方向への拘束力の認識を其の前提とする。如何となれば右拘束の認識のない者には眞正の自由なく、却て團體拘束を免れ樣とする情慾の奴隷となり、其の者の權勢慾が同人から實際の自由及平和を奪う不自由者となるからである。併し、自由は決して單純な感情に止まらずして、意思の不變の目標である。此の目標に到逹せんとすることは國民の人的協力の流に於ける均衡を得樣と努むる絶えざる戰を意味する。右の意味に於ける自由を吾人は團體的自由(個人的自由に對し)と稱する。國民團體は絶體的且それ自體總てであつて永遠の生命を有する個人は須臾にしてその存在を失うも國民團體は永存する。而して國民團體の存立は國民各員の團體的意慾に基くもので、右意慾は血統相關性及各自己の有する國民性を保存する義務の認識に其の基礎を有する。されば國民團體中に沒入し、國民同僚と國民全體の爲の共同の役務に於て結合するは各個人の義務である。生活規範である社會觀としての右國民團結の思想は道德的義務たるべきが如く、又生活規範である法律觀念として、法律義務を形成する。即國民團結の思想は法律觀念の必要的内容を爲すべきものである。於茲生活法則としての法律觀念には三個の指導原則存すると見る。團體思想、義務思想及妥協思想が之である。團體がなければ權利なく、義務なければ亦權利がない。團體を構成しない者は團體に對し權利を主張するを得ず。義務を負擔しない者は他人に對して權利を有せない。凡ての權利は團體思想及義務思想を其の條件とし、且團體意思及義務履行の意思は權利の内容及容積を限定する。尚國民各員の血統的相關性は偶然でなく生命法則から生ずる。夫故に國民各員の團結は又偶然でなく生命法則に基く必然である。各國民は此の血族的團體としての運命共同に加入しその爲此の團體は確乎たる特徴を帶びる。而して此の解くことの出來ない運命結束の認識は必然的に相互に與し合う意思の發動を強要する。即個人的自由主義に於ては合理主義抽象的劃一主義を其の基調と爲し、單に理論的徹底を目標と爲すが、團體的自由主義に於ては個人は全體を顧念し事の程よきに從ふ普遍思想又は妥協思想を基調とするもので妥協思想は又法の根本原則又は法の觀念の成分を爲すものと解する民法に於ける所謂信義誠實の原則等も此の思想を基調と爲すものである。

純然たる個人的自由主義に於ては權利は外部からの攻撃に對する人格保護の手段であつて、權利は他人から犯すことの出來ない人格自由の範圍を防衞した。それ故に權利の内容は人格に從つて定めらるべく、義務及其の内容は權利の附屬的對應的觀念に過ぎなかつた。然るに團體的自由主義に於ては自由人格の法律觀念に於ける中心的地位を排し、國民を凡ての法律觀念の中心點に置き、生活規範たる法律は國民團體の根據から權利の内容を定める。即妥協思想は團體思想と結合し、團體思想から直接義務思想が生ずる。權利の觀念は右諸思想の根源から第二次的に其の内容を定めらるべきものと解する。義務觀念は原始的で權利は義務觀念の附囑的對應的觀念に過ぎぬ。

本件の樣な國家の土地買收等の場合、國家が客觀的社會的見地に基く理由により或一定の價格を公定する場合、公平觀念、理論的觀念又は主觀的觀念に基き右買收等に基く總ての損害賠償を要求し得るとの觀念を制壓し、普遍的、全般的考慮により右公定に從うの思想が右妥協思想であつて、此の思想は憲法第二十九條第二項、農地調整法第六條の二、自作農創設特別措置法第六條の補償、對價又は價格に關する規定の根底を爲す法律觀念である。

原告は地租法によれば土地の賃貸價格は十年毎に改訂せらるゝことに規定されて居り第一回改訂が昭和十三年に行はれて以來第二回は昭和二十二年度に改訂せられなければならぬ筈なるに拘らず改訂が行はれなかつたが、若し右改訂が行はれたとすれば政府の物價體系に準據しても右昭和十三年決定賃貸價格の約六十五倍の線に引上げらるべきを一應相當とし、土地原本の價格はこの賃貸價格の二十倍乃至四十倍(賃貸料の利廻りを年五分と見れば逆算して土地の價格は賃貸料の二十倍、年二分五厘とすれば同じく四十倍の額と推算せらる)即現賃貸價格の六百倍乃至二千六百倍程度に評價せらるゝのが正當であると主張し、尚理論から云いば買收當時の諸計算分子により(例ば昭和十五年から十九年迄の平均反當實收高と云はず買收當時の當該耕地の實收高を標準として收益價格の基礎たる地代を計算せねばならぬと云ふことになるだろう)買收價格を計算すべしと云う議論も立つだろうが之は今次の樣な國家買收に付ては技術上事務上煩に堪へぬところであり、又前示賃貸價格が改訂期たる十年目に當る昭和二十二年に改訂せられなかつたのは原告も主張する通り「國の直面する諸事情の爲」であると認めらるゝのであるから右改訂せぬ賃貸價格を基礎とし自作農創設特別措置法による倍率を乘じて買收價格を算出したとしても所謂普遍思想又は妥協思想により法律觀念としても之は止むを得ぬ事情として了承せなければならぬ。況んや乙第一號證(二一頁)により明な樣に「買收の對價は賃貸價格を基礎としてその四〇倍又は四八倍としたのでなく、田と畑について自作收益價格を算出し、これを基準としたのである。四〇倍、四八倍というのはその自作收益がたまたま賃貸價格の四〇倍または四八倍に當るというだけである」から原告の主張は理由がない。

尚本件國家の土地買收に於ては民法上の不法行爲、不當利得の要件が具はる場合でも之等の觀念と異り、民法上の不法行爲の賠償責任の原則が適用あるものでなく、又國家が全く右行政作用により利益を得て居らぬ場合でも等しく賠償をするし、又賠償額は常に損害の高により計算し利得の高により計算することはない。證人小野孝夫の證言によると盛岡地方施設部で昭和二十二年度に鐡道用地として買上をした際田畑に付本件買收對價よりも遙に高價な對價を支拂つたことを認め得るが、右理論により、鐵道用地として國家が買上げるから農地として買上げる場合よりも對價を高くすべきだと云ふ理論は成立たぬ。双方場合共に所有者の受けた損害を對象として之を賠償すべきものであると考へる。併し國家はその時々の財政状態、支拂を爲す會計の關係、買收土地の將來の用途其他の事情に稽へ恩惠的に正當なる觀念に基く額よりも多額の對價を支拂うことも四圍の状態から首肯出來る場合もあるであろう。かゝる場合同一國家の行政作用として全般的に觀て不公平なりと云ふ理論も成立つであろうが此の場合にも所謂妥協思想により止むを得ぬ所として了承せらるべきものと考ヘる。

(二) 國家は種々の關係に於て國民に財産上の損害を生ぜしめる。公法上の損害賠償は個人に對して生せしめた右財産上の損害を填補せんとするものである。茲に我が法律上公法上の損害賠償請求權の概念を明にせねばならぬ。

公法上の損害賠償請求權を生ずる要件は、公の行政の作用により個人に財産上の損害を加へたこと及其の財産上の損害が同人に對する特別の犧牲たることである。右損害發生原因が事實上の行動たると行政行爲たると故意に出てたると偶然に發生したるとを問はず、又損害を加うることが適法なると違法なるとを問はぬ。本件農地買收の場合、土地收用法による收用等の場合と同樣國家が農地所有者に對價を支拂うのは右公法上の損害賠償の觀念に屬する。國家が個人に對し財産上の損害を要求するに當つては初めから出來得べき限り衡平ならんことを庶幾するけれ共かゝることは一般的且無條件に實行し得べきものでなくして個々の場合には事實上不均一な負擔を負はせることがある、かゝる負擔は國家のなした或給付に對する報酬として之を課するものではなくて偏務的に課するものであるから個人の犧牲であり、又他の者とは區別して不均一に或者に特別に課するものであるから特別の犧牲である。衡平の思想は、國家の作用をして出來得る丈け此の樣な特別の犧牲を課せない樣にすることを要求すると同時に、一度此の樣な特別の犧牲が課せられた上は事後に於て當事者に相當の賠償を補給することを要求する。國家は金錢を以て其の加へた損害の額を支拂い之を賠償するによつて、其の不衡平を除却するのである即財産上の損害を加へたのは不衡平であるから之に補償を與いるのである。其の金錢は國家は其の財産權により均一に各國民から徴收せるものを以て再び之を補う、斯の樣にして國家は右損害を其の總ての給付義務者に分配するのである。故に此の場合に於ける損害賠償は不均一なる負擔を均一なる負擔に變形させる方式である。此の意味に於て此損害賠償は不當利得の返還、不法行爲による損害賠償とは全然その責任を負ふ理由異り、其の根據は全く公法の觀念に屬するものであることが明である。

次に公法上の損害賠償の範圍に付學者の説く所によれば、公法上の損害賠償に在つては、公の行政により不均一に個人に課する凡ての損害が賠償の客體となるものではない。民法上の不法行爲に基く損害賠償請求權等に於ては、之によつて保護する財産上の利益は單に有形的のものゝみでなく營業上の顧客、信用、利得の機會等は皆賠償の客體である。公法上の損害賠償の客體は此の樣に廣きに及ばぬ、蓋し公の行政が新なる事業を起すに當つて斯の樣な遠い因果關係の及ぶ處を尋ね各個人の財産關係に付き各個別に生ずる損害又は利益を計算することは煩に堪へぬところである。衡平の要求は唯個人に有形の損害を加へた場合丈けに之を賠償するによつて充分とせねばならぬ。唯之れのみが個人に課した負擔で、又此のものを有する者でなければ犧牲を出すことが出來ぬからである。之れ故に明文を以て賠償の範圍を規定しない場合と雖も、公法上の損害賠償を許した法規は唯個人の直接の法律上の勢力範圍に對する侵害を前提とするものと解すべきである。右個人の直接の法律上の勢力範圍としては第一に、身體の不可侵、身上の自由及活力、次ぎには、物的の貨物にして個人に或法律上の所屬關係を有するもの、即所有權、他人の物の上の權利、債權的の使用權占有權、特許權、專賣權、專占營業權、著作權、工業所有權等皆之に屬する。直接に之等の法益を剥奪し又は其の續繼を毀損するのでない損害に付ては公法上の損害賠償權を生じない。

尚學者の説く所によれば損害賠償の請求權は個人に犧牲を課し有形の損害を加へた場合にのみ發生すると同樣、賠償を爲すべき損害の高も亦損害を受けた貨物が直接に其れ自身に有した價格に應して計算する。從つて役務の供給を課し又は動産物件を收用した場合に於ては其の普通價格のみを賠償する、即役務其のものゝ普通價格のみを計算し、收用の爲めに役務者の受けた其の他の損害例ば、之が爲めに他の一層重要な仕事を爲すことを妨げたこと等は之を考察しない、又右物件の普通價格のみを計算し、其の物が其の所有者に其の事情の下に於て一層高い利益を有したことは之を計算しない。身體上の毀損、宅地利用の禁止、營業上の施設の除去、特許權又は專賣權の剥奪の如きに在つては、賠償の計算は當然比較的に個人的でなければならぬ、特に將來に利得し得べかりしものをも考察せねばならぬけれ共、此の場合にも亦唯其の損害を蒙つた貨物自身の性質、裝置、經濟上の地位等に基いて當然に存した所を考察すべきである。

叙上の觀念から公法上の損害賠償の範圍は社會的に妥當な客觀的の物的基礎による計算分子によらねばならず、人的の基礎及主觀的の基礎による損害は何れも賠償の範圍に屬しないとの法則を立てることが出來る。

(三) 財貨に對する需要は今日の經濟社會では決して單なる慾望ではなくて供給に對して購買力を有する需要である。然るにかゝる購買力は一定の永い期間に亘つて考いれば結局は商品生産によつて形成せらるゝものである。同樣に長期間に亘つて觀察すれば、供給額は生産額に一致するのであるから、供給も亦商品生産によつて形成されるものである。然るに商品生産を左右する主なる事情は財貨の生産費、より正確に云いは、生産費と市場價格との關係である。何となれば市價がその生産費に比較して、生産者に相當の利潤をもたらす程度のものであれば、生産は引續き行はれるであろうが、若し市價が永續的にこの標準より降るならば生産者の損失となるからその生産額は早晩減少し市價は昇り反之市價が永續的にこの標準より超えるならば、生産額は增加し市價は降り、その結果市價はこの標準に合致するに至るであろう。かくの如く考へると、財貨の市場價格は生産費に相當の利潤(社會的平均利潤)を加へた所謂生産價格を基準として動くものである。而して生産額が供給額と一致し、或は生産額が適當の數量になる爲には一定の期間を必要とするから、生産價格は一定の期間に亘る正常的な價格と觀念され、古來自然價格又は正常價格と言はれる。

要するに市場價格は現實具體的に存在する唯一の價格であるが、それは當該財貨の生産費を標準として理論的に考へ得られる正常價格を中心として上下に動搖し常に之に合致せんとするものであるから稍々長期に亘つて見れば、市場價格を平均したものが正常價格となるわけである。勿論正常價格もその基礎となる生産費、利潤額の變動につれて、當然變化し得るが、然し一定期間にほゞ固定しその變動も亦極めて合理的に行われることを特徴とするものである。而して以上の理論は現代の經濟組織の下に於て、取引せられる一般的財貨に適用せられるが只市場價格の規制者としての生産價格(正常價格)は再生産の可能な財貨についてのみ求められるものであつて、土地のように自由に再生産出來ないものに就ては之を求めることが出來ない(鑑定人木下彰鑑定參照)。

右の樣な再生産可能な財貨に於ける意味の生産費が存しない土地の正常價格として學者の通説の採用するものは所謂收益價格である。農地に就て云へば農業者は之を生産手段として使用することにより一定の生産結果を擧げ、之を基礎として土地所有者が、當該農地貸與の代價として一定の地代(地主の純收益)を獲得し得るため、農地はこの地代という收益を生む資本として資本價格を測定される。而して農地の正常價格としての收益價格(又は資本價格)は地代と利子歩合を以て資本額に還元した額であるから他の事情にして同一ならば、それは純收益(地代)に正比例し、利子歩合に逆比例して變動するものである。つまり地代が高くなり又普通利子歩合が低下すれば農地の正常價格も高くなり反對の場合は低下して行く。只茲に注意すべきは收益價格の基準となる地代は理論經濟學上の正常的地代即正常な賃貸料としての地代であるということである。我が自作農創設特別措置法の採用せる自作收益價格は我國に於ける農地の唯一の收益價格である。

市場價格は所謂需要供給の法則と一物一價の原則に立ち財貨の現實具體的な價格であり、それは需要と供給との關係によつて定まり更にその需要と供給とはそれぞれその時その時の經濟事情、生産状態や關係者に附隨する自然的、社會歴史的な偶然的事情、例ば天候や特定財貨を單に所有すること丈けを目的とする需要者の出現等の經濟外的事情によつても影響されるから市場價格は常に動搖して定りないものである。農地に付ては人口增加に伴う農産物價格騰貴を見込み、而も農地の特殊性即ち限定された面積と個人所有制とに基く獨占性に刺戟され、將來に於ける純收益の增加を過大評價し、地代と賣買價を投機的に上げた事實も少くない尚元來、土地所有は封建的財産の言はゞ唯一の遺物である爲、古くは土地を營利的打算以外の理由で購入した者も多く斯る場合にも、それはしばしば收益價格を遙に上廻る市價で取引されたのである。殊に從來から土地を所有することは、社會的地位の向上、政治的勢力の獲得、財産の保全等に役立つ事が多かつたから斯る傾向も顯著である(鑑定人木下彰鑑定參照)國家が農地を買收するに際しかゝる主觀的觀點非經濟的原因により定まる農地の市場價格によることの妥當でないこと明である。

前述財貨の正常價格は、本來、自由な需要供給關係の一時的な安定的均衡點に定まる市場價格即所謂競走價格の中心價格となるものであるから、それは本來自由競走の行はれる資本主義的自由經濟組織又は自由經濟社會下に存すべき價格である。即ちそれは自由經濟の下に於ける言はゞ經濟的本質價格たるものであり、從て又公正價格でもある。何となれば自由經濟組織は言ふ迄もなく個人主義、自由主義、營利主義を基調としそこでは生産者に最大の利潤を欲求し消費者は最大の効力を追求して競争するが之等の各經濟主體間の自由競争が言はゞ完全に實現される價格が正常價格であつてこの價格の下に於て、財貨の各生産費部分は償れて過大の利潤も損失もなく企業者の普通の利潤を含めた費用が補償され、需要者(消費者)の要求も公平に調整されて充足され得るのである(鑑定人木下彰鑑定參照)。斯樣な意味合に於て農地の正常價格である自作收益價格が前述の社會的に妥當な客觀的物的のものであると云はねばならぬ。それで農地買收に付ての公法上の損害賠償額を定むる標準としては右自作收益價格に依るのを相當とせねばならぬ。

原告が「土地を耕作農業に適する土地たらしめるには萬般の努力と資本の投下によるものであつて、この集積の對價が農地の絶對價格である。勿論農地の交換價格即賣價は必ずしも絶對價格と一致するものではなく、加ふるに地味の肥痩による收穫の多寡、地形、位置、一定區劃の廣狹による耕作の利不利、經濟價値の大小一般商品同樣需給の關係等相對價格との結合によつて最終決定がなさるべきものであつて公正な農地の價格とは誠に斯の如きものである」と主張するのは同人の主張する所謂土地の絶對價格を基準とする市場價格によるべきものであると主張する樣であるが叙上の理由により此の理念に從うことは出來ぬ。

尚原告は日本銀行劵發行高の增額の趨勢、片山内閣當時採用した物價體系としての過去の物價基準の六十五倍の倍率、勤勞階級の賃銀ベースの高騰等を主張し本件買收價格の低いことを主張するけれ共何れも市場價格否闇價格を基礎とする立論で採用することは出來ぬ。尚證人大澤萬治の證言によれば縣下諸地方に於て本件買收對價よりも遙に高い對價にて土地の賣買が行はれたことを認められるが、右は市場價格を基調とする個人間の賣買の場合で本件國家買收の場合とはその基礎觀念を異にするものと考へるから右證言を採用することは出來ぬ。又原告は從來の小作料率から利廻計算により逆算した元本額を算出し農地の價格とし樣とするが元來我國の地代は異常に高率で(鑑定人木下彰鑑定の結果參照)この樣な地代は所謂正常的地代と云うことが出來ず之を基礎として利廻により逆算し農地資本の價格を定評すべきではない。

(四) 財貨の價格は自由經濟の下では、言はゝ競爭の原則に從つて自然的に均衡化されるが統制經濟の下では言はゞ規制の原則に從つて國家の政策により協定的に均衡化され。その決定經路は互に異るけれ共、その基準となるものは根本的に異るわけではない。自由經濟に於ける正常價格が完全な競爭、即ち競爭の極限を實現することに依つて公正價格となるとすれば、そこでそれは統制經濟に於ける公定價格の基準に轉化することになるであらう。正常價格が或る期間ほゞ安定して動かない性質のものであることも朝變暮改せらるべきものでないところの公定價格の性質に合致するのであり、かくて公定價格の基準も亦社會的に妥當な客觀的な正常價格でなければならないのである。特に私有財産制度と社會的分業を前提とする資本主義的統制經濟の下では、國家が權力によつてこれらの條件の制約を無視し合理的な生産費と平均的な利潤を補償しないような價格を一方的慾意的に決定すれば、生産は必ずや停頓減退し公定價格は結局維持され得なくなるであろう。

我國の農業經營は尚自給自足的な自然經濟的部面を多分に包藏し農地の所有と經營の分離徹底的ならず、自作農又は自作農兼小作農の地位が極めて大で且彼等の經營が主として自家勞力により維持され、肥料その他の生産手段も自給のもの多く生産物も自給用のものが大きな部分を占めて居る。この樣な農業に對し、資本主義的經營の農業と同樣の收益計算や生産費調査法を適用し各種所得の割合を科學的に算出することは甚だ困難である。然し我が國全體の經濟機構は概ね資本主義化しており、その上近代的な政治經濟的政策、諸制度、特に財政租税制度、物資需給計畫、金融物價政策體系等が樹立されて居るため、農業經營の收支の如きも企業的計算方法の適用を餘儀なくされて居るのみならず、農業の進保發逹と耕作農民の經濟的地位の向上を期するには、かゝる方法により農業經營の實態を明にすることが要請される。米の生産費調査と之に基く農家の收支及び農地の收益價格の測定は、之等の點に於て積極的な意義を有するものであり、この意味に於て問題の自作農創設特別措置法に採用された算出法は採用諸計數にして合理的である限り理論的に合理的な方法であると言はねばならず、從てその算出された所謂自作收益價格は我國に於ける農地の唯一の收益價格であり從て唯一の正常價格たるものである。むしろ農地改革の目的、精神に鑑みるときは、農業經營の獨立性と發展性とを保障する程度に耕作農家の收益を見積らねばならないのであつて反當り粗收入二四八圓七五錢中耕作者の利潤部分八圓五十錢地代部分一七圓八八錢なる數量は必ずしも妥當ではなくこの依然として高率とも云うべき地代額を資本還元した七五七圓六〇錢なる收益價格は高きに過ぎるとも言えるのである。所謂地主採算價格の基準とせられた小作料率は實に三割九分であり、在來の高率小作料を殆んどそのまゝ採用したものであるが、この小作料は當時迄の現實の事態を表現しているものであるから、農地の賣手としての地主の賣買見積價格(市場價格の地主評價格)の基準になるかも知れないが經濟學上の正常的地代ではないから正常價格としての收益價格の標準とはならぬ。

更に我國のような小農國に於ては、過剩人口が農村に推積している爲、耕地に對する競爭が特に著しく農地の賣買價格は農業收益と相關關係を持ちつゝも收益價格よりも著しく高い状態に在つた勿論それは現實の小作料が經濟的地代よりも遙に高かつた事實の反映でもあるが、兎も角小農民にとりては土地は生産手段というよりは生存條件であり又その自家勞力の唯一の投下部面でもある爲地價は利子歩合から獨立して、また屡々その高い利子歩合に反比例して限定された農地に對する需要超過により高騰したのである。かくてまた小作料や地價が我國小農民の重荷となり言はゞ慢性的窮迫状態に置かれて來たのであるから、小作料や農地價格を經濟的に合理的に正常な點に統制することは、確かに彼等を獨立自由な耕作者として解放の第一歩なのである(以上木下氏鑑定參照)以上の見地に立ち國家は農地價格や小作料を統制し、國家の個人に對する指導の任務を果さなければならぬ。此の觀點からするも國家が自作農收益價格により農地を買收することの正當性を觀得るであろう。

以上(一)乃至(四)の所説により本件農地買收に付國家の採用した自作收益價格は法律上正當なもので憲法第二十九條第三項に定めた正當の補償の觀念もかゝる價格に基く對價を指すものと解さなければならぬ。

然らば結局本件原告の主張はその理由がないものと云わなければならぬ。

依て原告の請求を棄却すべきものとし訴訟費用負擔に付民事訴訟法第八十九條を適用し主文の通り判決する。

(目録省略)

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